第116話 立ち木に激突 その2 幸運だった手術と入院生活

in surgery 青年期

   

   

   

 乗鞍のりくら位ヶ原くらいがはらで立ち木に激突し、松本の信州大学医学部附属病院に運ばれた私は、即、手術となった。

50年以上前のことだから、ということもあるだろうけど、麻酔から覚めたときの痛さが半端ではなかった。

えて言うならば、焼け火箸で胃の中をかき回されているようだった。

ワーワー言うたびに、痛み止めをしてくれた。

   

 東京から、家族がみんなでやってきた。

母から聞いたが、もしものことも考えたそうだ。

父と妹は無事を確認して帰ったが、母はしばらく滞在した。

   

 収容されたのは、なんと男女混合の10人部屋だった。

まさしく大部屋。
   

私の怪我は、肝破裂とのことだった。

衝突した衝撃で内臓が揺れ、柔らかい肝臓が脊椎にぶつかって、三ヶ所が裂け、そこから出血していたそうだ。

私の記憶に間違いがなければ、1200ccの内出血があり、800cc輸血したとのこと。

もう少し遅れたら、一巻の終わりだったらしい。

    

 この一連の出来事には、幸運が重なった。

・合宿場でぐずぐずせず、すぐ下山させて病院に連れて行くことにしたこと。

・松本についた時点で、町医者でなく、直接大学病院に連れて行ったこと。

 (同期の男子に大感謝である)

・5月の連休中だったにも関わらず、医局に医師たちが残っていたこと。

 ちょうどその日に何かの試合があり、なぜかそれをテレビで見るために残っていたというのだ。

   

 こうして無事、回復に向かったが、

傷跡は、約10年後に胃がんの手術をしたときと同じ、鳩尾(みぞおち)のあたりからおへそまで、一直線に15センチぐらいだった。

5センチではなかった。

しかし命には代えられない。

   

 大部屋は、まさに社会の縮図だった。

様々な事情を抱えた人たちが、なんらかの理由で手術が必要になり、集まってくる。

年齢もさまざまだった。

私は少し毛色の違う患者(東京からスキーに来て、怪我をした若い女の子)として、

珍しがられたり、可愛がってもらったりした。
   

   
当時は、家族が付き添っていることが多かった。

その付き添いの方々と交流したり、隣のベッドの女性の、複雑でかなりお気の毒な話を聞いたりした。

   

病気ではなく外傷だったので、どんどん元気になり、信州の病院で、貴重な社会勉強をした。

それは、いい思い出として残っており、今でも、特急「あずさ」で行く松本は、大好きな場所だ。

その後も、サイトウ・キネン・オーケストラのコンサートなども含め、何回か訪れている。

   

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