乗鞍の位ヶ原で立ち木に激突し、松本の信州大学医学部附属病院に運ばれた私は、即、手術となった。
50年以上前のことだから、ということもあるだろうけど、麻酔から覚めたときの痛さが半端ではなかった。
敢えて言うならば、焼け火箸で胃の中をかき回されているようだった。
ワーワー言うたびに、痛み止めをしてくれた。
東京から、家族がみんなでやってきた。
母から聞いたが、もしものことも考えたそうだ。
父と妹は無事を確認して帰ったが、母はしばらく滞在した。
収容されたのは、なんと男女混合の10人部屋だった。
まさしく大部屋。
私の怪我は、肝破裂とのことだった。
衝突した衝撃で内臓が揺れ、柔らかい肝臓が脊椎にぶつかって、三ヶ所が裂け、そこから出血していたそうだ。
私の記憶に間違いがなければ、1200ccの内出血があり、800cc輸血したとのこと。
もう少し遅れたら、一巻の終わりだったらしい。
この一連の出来事には、幸運が重なった。
・合宿場でぐずぐずせず、すぐ下山させて病院に連れて行くことにしたこと。
・松本についた時点で、町医者でなく、直接大学病院に連れて行ったこと。
(同期の男子に大感謝である)
・5月の連休中だったにも関わらず、医局に医師たちが残っていたこと。
ちょうどその日に何かの試合があり、なぜかそれをテレビで見るために残っていたというのだ。
こうして無事、回復に向かったが、
傷跡は、約10年後に胃がんの手術をしたときと同じ、鳩尾のあたりからおへそまで、一直線に15センチぐらいだった。
5センチではなかった。
しかし命には代えられない。
大部屋は、まさに社会の縮図だった。
様々な事情を抱えた人たちが、なんらかの理由で手術が必要になり、集まってくる。
年齢もさまざまだった。
私は少し毛色の違う患者(東京からスキーに来て、怪我をした若い女の子)として、
珍しがられたり、可愛がってもらったりした。
当時は、家族が付き添っていることが多かった。
その付き添いの方々と交流したり、隣のベッドの女性の、複雑でかなりお気の毒な話を聞いたりした。
病気ではなく外傷だったので、どんどん元気になり、信州の病院で、貴重な社会勉強をした。
それは、いい思い出として残っており、今でも、特急「あずさ」で行く松本は、大好きな場所だ。
その後も、サイトウ・キネン・オーケストラのコンサートなども含め、何回か訪れている。
コメント