音楽の時間に、有名な作曲家の作品を聞くことがある。
ある日、「交響曲の父」と呼ばれたハイドンはどんな曲を作ったのか、ということで代表的なものを聞かされた。
その中で、あの有名な「時計」注 という曲が流れると、教室のあちこちから「あ、百万人の英語だ」と言う声が聞こえた。
私はそれを知らなかったが、クラスメイトの多くが「百万人の英語」というラジオ番組を聞いていたらしい。
私も真似して、一度聞いたことがある。
テーマ曲として、ハイドンの「時計」が流れた。
内容は、なんか難しくて私にとっては面白くなく、すぐ飽きてしまってそれ以上聞こうとは思わなかった。
みんなよくあんなものを続けて聞けるなあ、と思った。
今になって気づくことだが、多くのクラスメイトは自分の将来について、
高学歴→社会の中で有用な人材となる、というイメージを当然のように描いていたようだ。
それで、ハイレベルな勉強をすることに気概を感じていたのではないかと思う。
一方私は、遠い将来のことを思い描くことができない頭なので、
目の前のことや、せいぜい数か月先のことを思うのが精いっぱいだった。
そんなわけで、高校生になったら男の子とデイトしてみたいなあ、ぐらいのヴィジョンしかなかった。
「百万人の英語」を聞いたりしてハイレベルな勉強の話に加わりたい気持ちもあったが、やはり無理だった。
より難しいことに挑戦して自分のものにする、という努力が続けられない子どもだったようだ。
自転車に乗れるようになりたくて、
毎日のように坂道を利用して、一人で何回も何回も練習して乗れるようになった、という経験はある。
しかし頭を使うことになると、こつこつ努力を重ねるということができない。
「百万人の英語」を聞いていた友だちがいたけれど、自分には無理だったなあという思い出話でした。
注 フランツ・ヨーゼフ・ハイドン 交響曲 第101番ニ長調 Hob.I:101 第2楽章
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