今は、大学3年生から「就活」が始まるらしい。
大変な世の中だと思う。
私たちの頃は、就活という言葉はなかったと思う。
服装も、「就活スーツ」というものはなく、男性はスーツだったと思うが、女性はプレーンなワンピースやスーツなどで問題なかった。
それに、就職を考えるのは4年生になってからだった。
大学にきた求人の広告が、掲示板に貼られていた。
その頃の初任給は2万円台だった。
有名企業だと、3万円を超えるところもあったが。
みな、それぞれにコネを利用したり、入社試験を受けたりして、準備していたようだが、私は会社勤めをしたいという気持ちが全くなく、どうしようかなあと思っていた。
友だちの中には、早々に婚約して、卒業と同時に結婚する人もいた。

「何をしていらっしゃいますか?」「家事手伝いです」「花嫁修業中です」などの会話が普通だった時代だ。
その頃、児童文学や絵本に関心があった。
その関係の仕事をしてみようかなと思い、先生に推薦状を書いてもらって、ある絵本の会社を訪問した。
数人のスタッフでやっている家族的な会社で、いいなあと思ったが、最終的に体よく断られた。
おそらく、話してみて、こいつは使い物にならんと思われたのだと思う。
そんなとき父が、コネのあった、ある観光会社を受けるように言ってきた。
乗り気ではなかったが逆らうわけにもいかず、受けに行った。
一次試験は形だけだから、と言われていた。
できてもできなくても、一次試験は通るとのことだった。
それは椿山荘で行われた。
観光に興味がないし、知識もないし、試験はほとんどわからなかった。
英語の試験もあった。
ネイティブの男性が何やら英語でしゃべり、それについての試験だったが、これもさっぱりわからなかった。
終わってバス停でバスを待っていると、一人の男性が来て
「試験、受けたんですか? できましたか?」と聞いてきた。
「いいえ、全然できませんでした」
彼は、「わからないところがあったなあ。落ちたかもしれない」と、かなり深刻になっていた。

できなくても 一次は通ることになっている私は、
(申し訳ないなあ。こんなことがあっていいのだろうか?)
と後ろめたさを感じた。
二次の面接試験では、やはり観光に関することを聞かれ、トンチンカンな答えをしたように思う。
英語の面接もあり、これまたさっぱりわからん、だった。
すべてニコニコして通した。
後日、父のところに「ちょっと、お嬢さん過ぎて……」と、やんわりお断りがあったそうだ。
父と母は、笑いながらこれを伝えてくれた。
内心ほっとした。
しかし、父は第二弾を持ってきた。
その会社に行くために、大学まで迎えの車が来た。
見たことのないおっさんが運転した。どうやらこの人が、父の知り合いらしかった。
会社につき、一人で入っていった。
きれいな会社だった。
部屋に通され、男の人が会社のパンフレットを持ってきて「これを見ていてください」と言った。
パラリパラリとページをめくったが、何が書いてあるのか、わからなかった。
事務機器を作っている会社だと聞いていたが。
さっきの人が入ってきて「どうですか?」と言ったが、答えようがなく、
「私は福祉関係の仕事がしたいと思っているんです」
と、超KYな(空気を読めない)答えをした。

すると、その人は、ほっとしたような表情をして、
「じゃあ、そちらに進まれたらいかがですか? ご自分の好きな仕事をするのがいいと思いますよ」と。
私も、すっきりした。
あのおっさんの運転する車で帰途についたが、車酔いして途中で降りた。
これで私の「就活」は終わった。
私は、ある子どものための福祉機関に自分でアプローチして、お手伝いに通うようになり、そこに就職した。
父は、自分が持ってきた就職の話を、ことごとく私がダメにしたことを全く責めず、自分がしたいことをすればいいという考えだったようだ。
父は口うるさい反面、私がしたいと思ってしたことについて否定することはなかった。
部活に明け暮れていても、「一生に一度、ハードトレーニングするのは、いいことだ」と言っていた。
この歳になって、父の気遣いに気がつく。
人事院「国家公務員の初任給の変遷 行政職俸給表(一)」
https://www.jinji.go.jp/content/900025420.pdf
コインの散歩道「明治・大正・昭和・平成・令和 値段史」
https://coin-walk.site/J077.htm




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