第51話 引っ越し

Dollhouse 学童期(東京編)

   

 小学校5年生の夏まで父の実家じっかに住んでいた。

当時、父の母、つまり私の母にとってのしゅうとめは、なんでもずけずけとはっきりものを言う人だった。

母も自我が強く、言われておとなしく引き下がるような人ではない。

   

 そういうわけで始終しじゅう衝突しょうとつし、母はなんとかこの不愉快な状況から抜け出そうと、自分たちの家を建てたいと考えていた。

しかし、そのころのうちには、立派りっぱな家を建てるほどの経済力はなかった。

そこで母は、当時の住宅金融公庫で借りられる範囲で家が建てられないか、いろいろと試行錯誤しこうさくごしていたようだ。

   

 ある日、紙と鉛筆えんぴつを持って、「できた! これでできるわ」と興奮していた。

母はみずから図面を引き、限られた範囲の中で私たち4人家族が暮らせる家を、工夫に工夫を重ねて設計していたのだ。

ちなみに母方の祖父は建築家で、建物の設計をすることは母もなんとなく心得こころえがあったのだろう。

   

設計する

   

 図面を父に見せ、「これでできるわよ」と交渉こうしょうし、父も私たちの学校の学区域内がっくいきないに土地を探した。

当時は安く借りられる土地(借地しゃくち)があった。

この図面をもとに、母の幼なじみの設計師に依頼いらいして家を建てることになった。

   

 限られた広さの二階建てなので、階段のスペースがぎりぎりで、今でもこの家の階段は無理な曲がり方をしており、上がり降りに気をつかう作りとなっている。

それでも母は芸術的センスのあった人で、小さいながらも家のそこここに、それをうかがわせる趣向しゅこうらしてあった。

子ども部屋は妹と共有で二段ベッドであったが、自分専用の机があり、本棚もあり嬉しかった。

   

 今考えてみると、母はそのとき 30代前半だ。

その歳で父に対し、何が何でも姑との同居は嫌だと主張し、自分でいろいろ工夫して設計し、資金の算段をし、家を建てることの実現にこぎつけるということは、たいしたものだと思う。

   
さまざまな苦境があったとき、いつまでもその中で忍従にんじゅうするのではなく、前向きにそこからけ出すことを考え、それを実行する力が母にはあった。

かくて、私は小学校5年生で新しい家に引っ越したのだった。

   

コメント

タイトルとURLをコピーしました